俺と音楽

なぜ俺は音楽をやっているのか。

俺が音楽をやっている理由はただ一つ「音楽が頭の中で鳴っているから」だ。それはなぜだかは正直わからない。それが良いか悪いかも何とも言えない。俺はそのせいで普通の暮らしを捨てざるを得なくなったし、そのおかげで心の底から満足する瞬間も得られている。ただ、音楽をやることの幸福が失うものに勝っているので続けたいと思えるのだと思う。といえば、音楽をやっている理由は、それが幸福だからと言える。もっといえば、楽しいからということになる。有名になる為にやるとか、賞で一番を取る為にやるとかいう理由ではもうなくなった。もしそうだとしたら、それを達成したらやる意味がなくなってしまうだろう。俺は思いつく音楽を作るということ自体が目的になっている。そして、もし誰かが聴いてくれたらもっと楽しい。以下俺がどんな音楽人生を送ってきたかをダイジェストで書いてみた。よかったら読んで欲しい。


幼少期のトラウマ

俺の親父はアルコール依存症で暴力をふるう人間だった。親父は東北から東京に出てきて物書きになりたかった。もともと気が短い性格のために会社で社長を殴ってクビになり、それからは組織に属することを嫌い、自宅で酒を飲みながら小説家を目指していた。生活費はもっぱら看護師の母に頼っていた。親父は芸術的なセンスはあったものの子育てに追われ自由に活動できず、その不満を家庭内暴力という形であらわすようになった。特に狙われたのは俺だ。姉から聞いたのだが、2歳ぐらいの時には理由もなく殴りつけることがよくあったそうだ。俺はいつも悲しそうに眉毛をハの字にしていたことから「ハの字眉毛のキミナリ」というあだ名をつけられたぐらい、悲しい幼児期を過ごした。そのことはトラウマとなり俺の人生を大きく狂わせることとなった。


俺と音楽の出会い

苦しかった幼児期、あるとき2階の姉の部屋から音楽が聴こえて来た。姉は洋楽好きで当時では珍しいレコード付きのステレオセットを小遣いで買っていたのだ。特にオフコースやビートルズ、サイモン&ガーファンクルなどメロディが綺麗なものを好んで聴いていた。1階にいた俺は聴こえてくる優しいメロディに心を奪われていた。上の階を見上げると窓から光が差し込んでいて、まるで天国にいるような気持ちになった。俺が抱える苦しみを全て癒してくれるような音楽にここ頃を奪われた。その時から俺は学校をズル休みしては姉の部屋に忍び込み色んなレコードやカセットを聴くようになった。そしてやがて、テレビの音楽番組に夢中になるようになったのだ。


音楽が癒してくれた

姉の部屋から聴こえてくる音楽の魅力に気が付いた俺は、苦しみが音楽で癒されることを知ることとなった。それからというもの、俺は苦しくなるとメロディを歌うようになった。学校からの帰り道、公園へ行く途中、ラララ〜と自由にメロディを歌うことが好きになった。音楽を口ずさんでいる時は、苦しみを忘れることができた。俺はメロディをどんどん即興で展開させ、どこまででも歌える気がしていた。そのメロディは青空に吸い込まれて行くような感じで、唯一俺の自由な時間であった。暴力をふるわれ続ける幼い俺が唯一癒されるとき、それが音楽を奏でる時であった。


バンド活動開始

俺のバンド活動は小学校の時にテレビで見たCCBに影響されたことからスタートした。テレビドラマの主題歌に夢中になり幾度となくCCBの真似をして遊んだ。そして、直ぐに友人とバンドを組んだ。といっても、友人が持っていたサックスのオモチャと俺はポリバケツをひっくり返したドラムを叩いていただけだ。中学に入るとBOOWYというバンドが流行りだし友人がギターを買ってコピーを始めた。もともと音楽好きだった俺は先を越された感があり、後からこっそりと安物のギターを買った。高校に入ってからは軽音楽部に所属して地元の高校生バンドイベントなどでライブをやった。ブルーハーツのコピーバンドで俺はボーカルをやった。高校を中退して本気でプロのミュージシャンになろうとしてヘビーメタルバンドを組んだ。当時聴いたメタリカに影響されたからだ。それから徐々に音楽性が過激になっていき、もっともうるさいデスメタルというジャンルをやるようになった。そのバンドで東京都内のライブハウスなどで演奏していたが、ドラマーの怪我により解散した後には、全国をツアーするレベルのデスメタルバンドに所属して活動するようになった。しかし、22歳の時にデスメタルの音楽性に限界を感じ、バンドを辞めた。


ポップミュージシャン時代

デスメタルをやめた俺は、一時ディスコで働いて、人生初のモテを経験した。もうその頃は、やれればいい!というだけの毎日を過ごしていた。しかし、ある時究極のモテを極めたホストの先輩を見た時に、俺はこうはなれないと悟り、ディスコを後にする。それから俺は当時CDが売れまくっていた時代だったので、俺もメジャーデビューしたいと思い、流行っている音楽をひたすら聞いてデスメタルとは180度違うJ-POPをすることに決めた。本気でJ-POPを研究して作曲をして、ギター、ボーカル以外にドラムやベースなども演奏してカセットMTRに録音した。そうやっt絵作ったデモテープを、俺はコンテストに応募しまくった。その結果、ある曲がコンテストを勝ち抜き、大手通信会社の新規に立ち上げるレコード会社の第一弾アーティストとしてデビューが決まったのである!!期待と不安が入り混じった俺は、プロデューサーに来週までに5曲作ってこい。と言われて必死な思いで、売れそうな5曲を作って持っていったところ、「うーん。これとこれはいいけど、あとは使えないな。」と言われる。その時、自分ではこれ以上ないというほど出し切った曲にダメ出しをされて、ヘコんだ。さらに、俺は、プロデューサが求めるような売れそうな曲は実は自分が表現したいことではない。と強く思い、なんと引きこもって連絡を絶ってしまったのだ・・。そのプロデューサーとも徐々に疎遠になってしまい、俺は長年の夢を入り口付近で諦めてしまった。今思えば、貴重な経験ができたかもしれないのに、もったいないことをした。よく考えてみれば、使える曲が2曲あるだけで、だいぶ良かったと思うのだが・・・・。そして、俺は自分が表現したいのは、もっと暗くて恥ずかしくて本音の音楽こそが持ち味と考え、一人渋谷の暗いライブハウスでライブ活動をするようになる。


迷走時代

暗いライブハウスでライブをやっても、ちっとも受けなくて、俺は精神状態が極限まで追い込まれた。俺は自信をどんどん失い、何を思ったかゼロから音楽を学びなおそう思い、習うなら国内トップだと思い東京藝大を目指す。そして中卒だった俺は、受験勉強を開始する。大検をクリアして、お金がないので、勝手に予備校に潜り込んで勉強したり、母親以外誰も応援してくれないので、実家に帰れなく、横浜駅のホームレスのいる暖かい場所で勉強したりもした。当時の精神状態は正直やばかった。突然奇声をあげて、走り回ったりして、病院に行ったらノイローゼと診断された。そして、いざ藝大を受験したら学力が足りずに落ちてしまった。俺は失意の中、一人上野公園で今までの音楽人生を振り返って日記に書いた。そして自分はここまでやりきったからもうよし、ここで音楽をやめようと思った。それから、俺は第二の人生をあゆむべく、いろんな本を読んだところ、偉い人が「音楽的成功に比べたら、学校の勉強など、誰でもやれば成績を残せる。」みたいなやつを読んで感化され、こうなったら勉強して何か資格を取って成功者になればいいんだ。と考えた。その場合何がキャッチーかな。と考えて、医者か、弁護士になろうと思い、どちらかというと金のかからない弁護士を目指すことにする。俺は法律を教える通信制の大学に行きながら、有名な司法試験の予備校に通うも、そこの学生のやる気とレベルの高さに驚く。彼らは弁護士になるために命をかけていた。そして彼らをみて、自分の甘さに気がつき、弁護士を諦めた。だけれども、大学までやめてしまうと俺はすべて中途半端だと思い、学科を児童教育に変えて、今度は先生をめざすことになる。


ストリートミュージシャン時代

大学の卒業論文制作のための研究で子供の名前を付けた歌を作って子供の自己肯定感を高めるという研究をしている時のことだ。もう音楽を辞めて何年も弾いてなかったギターを使って歌を作っていると、俺の中に眠っていた音楽への情熱が蘇って来たのだ。そして、ある時、研究の為に通っていた東京都内の保育園からの帰りの電車で、俺は無性に歌いたいという衝動に駆られてしまい、何年も封印していた音楽への情熱が電車が横浜に到着する頃には爆発しかかっていた。もう居ても立っても居られなくなった俺は、横浜駅で路上ライブを始めていた。無我夢中で歌っているとき俺は心の中で確信していた。そうだ、これが俺がやりたいことなんだと。それから毎週1回3年間路上ライブをやろうと決意した。当時は路上ライブのブームは終わっていた頃だったにも関わらず、俺は毎週横浜駅に立ち続け、きがついたら、路上に50人くらい人が集まって大盛り上がりするところまできていた。当時の俺のあだ名は、横浜駅のポップの神様。だった。


オンラインミュージシャン時代

路上ライブでギターでは表現の幅が出ないと思った俺はある時、長年弾き続けたギターをやめて、キーボードでの弾き語りに乗り換えた。そして、鍵盤をギターくらい弾けるようになった俺は、次第に打ち込み音楽に興味を持ち始める。路上ライブで常にお客を集めたり、売れそうな曲もどんどん出来る俺は再び自信をつけて、また音楽で生計を立てたいと思い始めた。しかし、すでに33歳だった俺は、普通にレコード会社にデモを送ってというようなスタイルはもう無理だと思った。しかし、テクノやトランスの世界では見た目や年齢ではなくて、サウンドそのものが評価されているのを見て、俺もそれをやりたいと思った。そして、当時、友人の勧めで手に入れたドイツのソフトウェアが俺の制作人生を大きく変えた。そこで出会ったコンピューター音楽に夢中になり、曲を作っている動画をインターネットで発表したり、映像向けのBGMを作って販売していたりしたが、特に注目されるわけでもなく、俺はよりシーンが活気付いているボーカロイドの世界で何かできないか模索していた。しかし、そんなとき・・・


音楽をやめて中国へ

2011年。311の東北大震災が起きた。それにより、俺の音楽人生は再び暗雲が立ち込める。「音楽などやっている場合じゃない」そう思い、俺はこのままきっと、日本は崩壊するという怖れに駆られたのだ。俺はすぐに海外でも働けるような能力を身につけなくては生きていけないと考え、中国へ渡ることにした。それから4年間、中国で商売や日本語教師をしながら成功を目指したのだが、うまくいかず最後の預貯金をも(女に)使い果たし、日本に帰ってふただび、商売をしようと目論むも失敗。気がつくと一文無しになっていた。その間に母を亡くしてしまい、俺は人生初の「孤独」に襲われ、徐々に死すらイメージするようになっていた。しかし、そんな時でも俺の心の支えになっていたのは音楽だった。


そしてならおかファームへ

俺は28歳で音楽で飯を食う夢を諦めてから44歳の今までも、ずっと作曲だけは続けていた。それらは人に聞かせるために作っていたのではなく、いわば日記のような感覚で作っていた。作りためた曲は1000曲近く。なぜ作っていたかというと、メロディが溢れ出てくるのと、幼少期のように、どんなに辛くても音楽を作っている時だけは安心することが出来たからだ。俺はもう音楽を人に聞かせることはないと思っていた。2016年俺は残りの人生は音楽をやりながら自給自足の生活でもしようと、豊田市に移住して農業を始めた。それが、すんなりいかなかった事はここに書いた。そして、2018年親父が死んだ。葬式が終わって、俺は放心状態になった。長らく俺を苦しめていた悪魔の死。俺は怒りのやり場がなくなってしまった。しかし同時に俺の中で何かが変わった瞬間でもあった。俺は昔の友人に連絡を取り、一緒に飯を食った。その後、彼は俺の家に遊びにきてくれて、そこで俺は作りためている曲のごく一部を聞かせた。そのとき、彼の一言。「これ、すごい才能だよ。表に出すべきだよ。」俺は雷に打たれた気がした。誰にも聞かせるつもりのなかった自分の日記のような、いわば恥ずかしい音楽たちを友人に褒められて、底知れぬ自信を得た。そしてこれを表に出そう。しかし、誰も聞いてくれないかも・・。そう思ったが、そうだ。もう俺は失うものが何もないから、聞いてくれなくても、とにかくアップしよう。そしてついでに俺という人間をこれでもかと全て出し尽くしてやろう。と思い、正直人間ならおかファームというアーティストとして再出発を決めたのである。そしてそれから半年、俺はYoutubeで徐々に反応が取れ始めてきて、ミュージシャンの枠にとらわれずに自分が表現できるのなら、なんでも良いと思い、Youtuberとして活動を始める。